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アフリカFAQ 目次


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「VOR」◆(2012/05/03) エリトリアと 北朝鮮 世界で最も検閲が厳しい国

「An Arms Watcher」◆(2011/06/16)ウクライナ,200台以上の戦車を輸出 −エチオピア

「Strategy Page」◆(2013/05/07) ETHIOPIA: Egypt Threatens To Think About Invading

「VOR」◆(2012/06/15)エチオピア スカイプを禁止


◆E


 【質問】
 フレデリック・フォーサイスが関与したとされる赤道ギニア Equatirial Guinea の政権転覆計画について教えてください.

 【回答】
 元々はジャーナリストだったフォーサイスは,ナイジェリアで起きたビアフラ紛争で敗北した少数民族イボ族に同情.
 その後作家に転向した彼は,ベストセラーになった「ジャッカルの日」で得た利益で,独裁者マシアス・ンゲマ権下にあった赤道ギニアの政権を倒し,反体制派イボ族をそこに移住させようという計画を立てた.
 ベルギーの武器商人から銃器を調達し,雇ったアフリカ人傭兵を漁船で送り込もうとしたが,船が途中で臨検を受けた為に失敗に終わった.
 で,この時の計画を元に書いたのが「戦争の犬たち」と言われている.
 本人は関与を否定し,武器商人と接触したのは「犬たち」執筆の為の取材だと主張しているが.


◆エチオピア


 【質問】
 エチオピアの歴史を3行で教えてください.

 【回答】
 シバの女王の伝説(紀元前10世紀)を別とすれば,紀元前5世紀から1世紀にかけて、ティグレ地方に起こったアクスム王国が,国家としてのエチオピアの最初.
 しかし1137年,南のラスタ地方のアガウ族が,北上してきてアクスム王国を滅ぼし,ザグウェ朝を打ち立てた.
 王国南端のショア出身のアムリク人イクノ・アムラクが叛乱,1268年にサグウェ朝を滅ぼし,エチオピア帝国を建国,これがイタリアなどに一時占領されつつも,1974年まで存続した.

<略年表>

先史時代 ネグロイドが定住

BC3000頃 ハム系クシ族の定住

BC1000頃 南アラブよりセム族侵入/シバ女王とソロモン王の伝説

BC100頃 北部にアクスム帝国成立/エジプト、インド、イタリアなどと交易

AD300頃 アクスム帝国最盛期/エザナ王が近隣諸国を征服

330 キリスト教が国教に

350頃 クシュ王国を滅ぼし,スーダン北部からアラビア半島南部まで領土を広げる

500頃 カレブ王が帝国を復興

523 第一回アラビア攻撃(以後3回にわたる)→アクスム軍がペルシア人に より全滅→回教徒勢力に紅海の主導権を奪われる→遊牧民ペルシア族、エジプトとの交易を断つ→ペルシア族の侵入、アクスム人南下

585 サーサーン朝ペルシアのホスロー1世が,イエメンに遠征し、アクスムは壊滅的な損害を受け,イエメンの支配権を失う

1137 アガウ族のマララ・テクレ・ハイマノト王,アクスム王国を滅ぼしてザグウェ朝建国

1268 アムリク人イクノ・アムラクの叛乱により,ザグウェ王朝滅亡

1270 アムラク,ソロモン王朝復活を自称し,皇帝を名乗る.

1382,ダウィト1世,帝位に就き,以降,はエチオピア高原東部のワラスマ王朝イファト・スルタン国に幾度も攻め入る

1445 皇帝ザラ・ヤコヴ,ダワロの戦いにおいてアダルらイスラム王国の軍を壊滅さす

1525頃 アダルの軍人アフメド・イブラヒム・ガジを指揮官としたイスラム軍,エチオピアに侵入

1542.4 ポルトガル遠征軍とエチオピア皇帝ガローデオスの軍勢,イスラム軍に勝利

1542.8 ウォフラの戦いにて,ポルトガル軍はイスラーム軍に敗北

1543 ポルトガル遠征軍とガローデオス帝の軍は,タナ湖付近の戦いで,イスラム軍を破る

1769 ラス(諸侯)の一人ミカエル・セフル,皇帝イヨアス、皇太后メンテワブを殺し,最高権力者に

1784 ウォロ州出身のラス,アリ・グワングラ,皇帝ギヨルギス1世を廃して自ら皇帝となる(ヤジュ朝)

 以後,戦国時代に突入(諸公侯時代)

1853.6.29 カッサ・ハイル(後のテオドロス2世),アイシャルの戦いにて,アリ2世の軍隊を事実上崩壊させる

1855 カッサ・ハイル,エチオピアを再統一

1868 通商条約を巡る紛争でイギリスと争う→エチオピアは敗戦し、イギリスは引き上げる。

1871 ヨハネス5世が帝位につく→エジプト、スーダン侵略の撃退

1887 ヨハネス5世がイタリア軍の侵攻を阻止/首都がアジスアベバに決定

メネリック2世が帝位に/イタリアとウッチャリ条約を結ぶ(マレブ川北部はイタリアの支配へ)

1890 イタリアが北エチオピアをエリトリアと命名

1896 現在の国境確定

1923 国連加盟

1930 ハイレ・セラシエ1世即位/日エ修交通商条約締結

1931 帝国憲法の制定/奴隷制度の廃止/友好使節団訪日

1935 イタリア軍侵入

1936 イタリア軍に併合され、皇帝はイギリスに亡命

1941 イギリス軍の応援によりイタリア軍を破り、アジスアベバに帰還

1952 エリトリアと連邦を結成

1962 エリトリアを併合/エリトリア解放戦線(ELF)発足

1963 アフリカ統一機構(OAU)の本部をアジスアベバに設置

1974 革命が起き、軍事社会主義政権へ

1978 エチオピアとソマリアの間で,オガデン戦争勃発

1987 エチオピア人民民主共和国成立。メンギスツ・ハイレ・マリアムが初代大統領に

1988 エチオピアとソマリアとの間で,和平合意

1991 社会主義政権の崩壊。メレス・ゼナウィが大統領に

1933 住民投票の結果,エリトリア独立

1995 エチオピア連邦民主共和国に。メレスは首相になり、ネガソ・ギダダが大統領に

1998 エリトリアと国境を巡り武力衝突

2000 対エリトリア紛争終結

2001 グルマ・ウォルドギョルギス大統領就任

 【参考ページ】
http://tospa-flags.com/africa-05.html
http://hanzawazemi.web.fc2.com/ethi_rekishi.html

地理上のエチオピア位置
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/07/09 20:50
を加筆改修

>3行で

失われたアーク
ドゥーチェ
マラソン

しまだin mixi,2012年07月04日 10:45


 【質問】
 エチオピアの言語状況は?

 【回答】
 エチオピアと言う国は,イタリアの学者から"museo di popoli",即ち「民族の博物館」と言う形容をされています.
 それは他のアフリカ諸国と同じく,多民族・多言語国家であり,屡々80以上の言語が話されていると言われています.
 米国の言語学者に依れば,その数75で,系統別内訳はセム系12,クシ系19,オモ系23,ナイル・サハラ系20,その他1となっていますが,此処に上げた言語のうち,セム系のゲエズ語とガファット語,クシ系のクワラ語とカイラ語は死語であり,現在でも用いられているのは71となります.
 その他1とは,1980年代になってやっとその姿が明らかにされたオンゴタ語ですが,1990年代初頭,既にオンゴタ人の人口は全体で89名,その内話者は僅かに19名,既に死語に近付いている言語です.

 1994年実施の国勢調査では,エチオピア国民の母語数として77が掲載されていますが,これにはオンゴタ語は入っていません.
 また,良く出て来る『エスノローグ』では89言語,うち5言語が死語,残りは84ですが,英語とエチオピア手話が含まれているので,民族語としては82となっています.

 こうした研究や調査による数の違いは,基本的にはある言語変種を別言語と見做すか,方言と見做すかによって変わっているもので,特に大きな数の違いは実は余りなかったりします.

 その分布状況を見ると,エチオピア中心部の高原地帯にはセム系の言語が分布しています.
 例えば,エチオピア正教やエチオピア文化を支えてきた人々の言語であるアムハラ語,ティグリニア語がそれです.
 ハラル語は,東部の城壁に囲まれたイスラーム都市ハラルの町中のみで話されている言語です.
 セム系言語の周囲に広く分布しているのがクシ系の言語です.
 このクシ系で最大の分布地域と話者数を持つのが,先日ケニアの項でも触れたオロモ語で,この言語は国境を越えてケニアでも話者がいます.
 東南部では,隣国ソマリアの公用語でもあったソマリ語が話されています.
 西部のスーダン,南スーダン国境に副って分布しているのがナイル・サハラ系の諸語で,西南部の一角にあるオモ川流域で話されているのは,従来クシ諸語の一部と見做されていたオモ系の諸語になります.

 これだけ多くの言語があるのですが,1,000万人以上の話者人口を持つ2大言語はアムハラ語とオロモ語であり,アムハラ語の母語話者人口が1,737.2万人,オロモ語の母語話者人口が1,677.8万人とほぼ拮抗しており,両者で人口総数の60%以上を占めています.
 それに続くのが北部のティグリニア語で母語話者人口322.4万人,東部のソマリ語が318.7万人で続き,以下,中央部のグラゲ語が188.1万人,南〜南西部のシダマ語が187.6万人,ウォライタ語が123.2万人となり,以上5言語で100万人以上の話者人口を擁します.
 一方で,先述のオンゴタ語を含め,話者人口が1万人以下の言語も22を数えます.

 民族人口と話者人口を比較すると,エチオピアの大抵の言語の場合,それは拮抗しています.
 しかし,最大勢力であるアムハラ語はアムハラ人以外でアムハラ語を母語とする者が100万人以上いるのに対し,2位のオロモ語の場合は,オロモ人のうちの約30万人は別の言語を母語とすると言う風に異なっています.
 これは話者数が100万人以上の言語なら余り大した意味はありませんが,その母数が小さくなると異なった意味を持ちます.
 例えば,アルゴッパ語では民族人口62,912人に対し母語人口は10,860人と母語人口率は僅か17%程度であり,ケマント語に至っては,民族人口172,324人に対し母語人口は僅かに1,650人しかおらず,危機的状況にあります.
 これはケマント語がアムハラ語に極めて近い言語である事から,アムハラ語に浸食された結果であり,既にモノリンガル話者は殆どおらず,60歳以上の老人でも,その使用場面は祈りとか秘密の場面に限られていると言います.

 因みに,ユネスコではオンゴタ語とアルゴッパ語を消滅寸前,クエグ語,ムルレ語,ケマント語,シャボ語が消滅の危険性大と判定しています.

 ところで,エチオピアは19世紀に北部のアドワの戦いによりイタリア軍を打ち破り,植民地化を免れました.
 その後も独立を保ちましたが,1935年にムッソリーニ率いるファシスト軍の侵攻を受け,その攻勢により1936年に皇帝ハイレ・セラシエが英国に亡命すると,1941年に英国がイタリアからその地を奪還して復位するまで,イタリア領東アフリカに組み込まれてしまいます.
 その5年間,この地では一時的にイタリア語が公用語となり,エチオピア諸言語の上に君臨する形になりましたが,その時期は余りにも短く,イタリア語がエチオピアの諸言語の上に君臨する言語の位置を獲得するには至らず,言語面ではアムハラ語などのエチオピアの言語に余り強い影響を及ぼすことはありませんでした.
 借用語も,例えばpastaとかmarcato,gazzettaくらいなもので,特別多い訳でもありません.

 欧州の言語ではフランス語の影響が強く見られましたが,現在では英語の勢力が強く,また古くからイスラーム世界との関係も密接であったことから,アラビア語由来の言葉も多く見られます.

 これは1つには,固有の文字を持っていたことが挙げられます.
 固有の文字を持っていたからこそ,記録と言う形が取れ,公文書を作成するのに自分の民族の言葉が利用できた訳です.
 その歴史は実に2,000年以上に及びます.
 但し,その歴史の殆どはゲエズ語であり,アムハラ語の様な日常使用されている言語が文字で書かれる様になったのは比較的遅く,19世紀後半以降からです.
 従って,文字は専ら限られた層の専有物であり,一般民衆の手に渡るのは長い長い月日が必要でした.
 また,アムハラ語以外の言語の文字使用が始まったのはつい最近のことです.

 エチオピアの文字使用で最古の記録は,南アラビア文字によるものです.
 古代からアラビア半島の南に位置する,対岸のイエメンとエチオピアとの間には,密接な関係がありました.
 この為,エリトリアとその南に位置するエチオピアのティグライ州に於いて,多くは石に刻まれた記録が発見されています.
 それは凡そ紀元前5世紀以降で,言語的には南アラビアにあったサバ王国の言語と極めて似通っています.
 内容的には神への奉献文が多く,その内容も定型的で短いものなので,その全体像は未だに定かではありません.

 纏まった文字資料が登場するのは,ゲエズ語による記録です.
 エチオピア北部のティグライ州に位置する,アクスムと言う町を中心にした王国が3世紀頃に成立し,4世紀のエザナ王の時代には近隣の地方を征服し,又キリスト教を受容すると共に紅海貿易で強大な国に発展しました.
 この国の言語がゲエズ語であり,南アラビア文字から発展した文字で書かれました.
 これが,現在でもアムハラ語の表記に用いられているエチオピア文字です.

 エチオピア文字は当初子音のみでしたが,エザナ王の時代に子音+母音という纏まりを表す音節文字の体系に生まれ変わりました.
 アクスム王国期の主要記録は,4世紀以降に作られた王の碑文等です.
 キリスト教を受容したことで,聖書の翻訳も為されたはずですが,これは後の王国滅亡時の混乱や16世紀に於けるイスラームの大侵攻により,教会や修道院が破壊されたことから,多くの古写本は散逸してしまっているので,現在では現物はありません.
 なお,アクスム王国が滅亡した後,この地ではクシ語系言語を話す人のザグエ王朝が成立しますが,この時期も公用語としてはゲエズ語が用いられました.

 13世紀後半になるとザグエ王朝に代り,イエクノ・アムラク王が統治するアムハラ人王朝を打ち立て,イスラエルのソロモン王とシバの女王との間に生まれたメネリク王の,正統な後継者として,ソロモン王朝の復活を宣言しました.
 この王朝が,1974年のハイレ・セラシエ廃位まで約700年間続いた訳です.

 この間宮廷用語はアムハラ語でしたが,書き言葉はゲエズ語が公的場面で用いられていました.
 さしずめ,ゲエズ語は欧州に於けるラテン語の様な存在だった訳です.
 この時代の代表的な書物として,『ケブラ・ナガスト』と言うエチオピアの建国伝説を含んだ書物(日本の古事記みたいなもの)が挙げられます.

 一方,アムハラ語は書かれるものの,それは公的な性格のものではありません.
 アムハラ語資料の最古の資料は,16世紀の皇帝を詠った詩ですが,それ以外には聖書の註解,柔術的な文献での使用と言った限られた場面でのものでした.
 しかし,17世紀にエチオピア正教に対抗して布教に勤しんだイエズス会によるカトリック布教の際に,アムハラ語訳の聖書を用いたと言われています.
 一時は皇帝ガラウデオスをも改宗させる勢いのカトリックでしたが,その孫ファシラデスにより活動が禁止されて宣教師達は追放され,現在ではこのアムハラ語版聖書は現存していません.

 その後,19世紀半ば,エチオピアは混乱の極みにありましたが,その混乱を制し,国の近代化を推進した皇帝テオドロスが即位してから,アムハラ語の書記言語化が進められました.
 テオドロス帝はアムハラ語を国民統合の手段の一つと考え,皇帝の年代記もゲエズ語ではなく,アムハラ語で著されました.
 また,プロテスタント宣教師の活動を許可しましたが,彼らは欧州で印刷されたアムハラ語訳聖書を大量に持ち込みました.
 その後,メネリク2世の時代になると完全にアムハラ語がゲエズ語に取って代わり,20世紀には更にアムハラ語は書記言語として洗練を重ねていくことになります.

 因みに,近代教育が行われるまで,識字教育はエチオピア正教会での教会人養成のための学校で行われるエチオピア文字,ゲエズ語学習,イスラーム向けのコーラン学校でのアラビア語とアラビア文字教育が行われただけでした.
 なお,アムハラ語以外では,ハラル語がアラビア語で書かれた程度の資料しかなく,殆ど記録は残されていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/20 23:43
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 エチオピアが公用語をアムハラ語としたことの影響は?

 【回答】
 ハイレ・セラシエ皇帝は1930年の即位以来,エチオピアを日本同様,皇帝中心の近代国家に脱皮させようと種々の改革を行いますが,国家統一の手段として,言語面ではアムハラ語中心主義を推進しました.
 即位翌年に制定された欽定憲法――因みにこれの手本の一つには,大日本帝国憲法があったりする――には存在しなかった公用語規定は,1955年の改定欽定憲法の第125条で,「帝国の公用語はアムハラ語とする」と初めて規定されます.

 ここにおいて,エチオピアの数多くの言語の中で,アムハラ語だけが法律的にも特別な地位を明確に与えられました.
 と言う事は,これによってアムハラ語以外の言語の存在は,完全に無視されることになります.

 因みに当時,エチオピアは1952年以来,イタリア領だったエリトリアと連邦を構成していましたが,1962年にこの連邦は解消され,エリトリアはエチオピアの1州として併合されてしまい,以後,冷戦後に独立を果たすまで,エチオピアの膝下に置かれることになりました.
 エリトリアの憲法では,公用語はティグリニア語とアラビア語だったのですが,エチオピアの憲法の方が上位規定となるので,帝国政府は言語面でも,エリトリアをその体制に取り込んでいこうという姿勢を,如実に示したものといえます.

 当然,アムハラ語普及のために教育の近代化も図られ,言語は全国的にアムハラ語化されます.
 しかし,教育の普及は遅々として進まず,1960年代には識字教育の普及も為されましたが,こちらも大きな成果を挙げるに至りませんでした.
 因みに,当時の識字教育は,自分たちの言語を読み書きするのでは無く,あくまでも「アムハラ語」の識字でありました.
 その識字率は非常に低く,1970年のユネスコ統計では,僅かに7%でしかありません.
 その後,1972年に国立アムハラ語アカデミーが教育・芸術省の下に設置されますが,殆ど絵に描いた餅的な存在でした.

 アムハラ語以外に公的に使用が認められたのは,ソマリ語,アファル語,ティグリニア語のラジオだけでした.
 また,アムハラ語以外は言語の文字表記が認められませんでした.
 例えば,1944年の皇帝勅令第3号では,キリスト教布教の場合の聖職者に対し,聖書の翻訳にはエチオピア文字の使用を認めず,また住民との日常的な接触に,現地語を使用するのは認めるものの,布教活動はアムハラ語のみとする様に強制するなどの施策を通じて,アムハラ語の普及を図ろうとします.

 そして,アムハラ語の普及を図ると共に,エチオピア文字の使用は政府,究極的には皇帝のみがそれを独占し,民族語の文字化は許されませんでした.
 非エチオピア文字,例えばアルファベットを用いるのはエチオピア帝国=アムハラ語=エチオピア文字と言う図式に反することであり,これは反体制行動と見られかねません.

 ところで,エチオピア最北部のティグライ州と,隣国のエリトリアで,約440万人以上で使用されている言葉がティグリニア語です.
 この言葉は,エリトリアでは,国内で話される9つの言語の中で,最大の話者人口を持ち,エチオピア国内でもアムハラ語,オロモ語に次いで3番目に多い話者人口を持ちます.
 この言葉を表す文字もエチオピア文字ですが,これが用いられる様になったのは19世紀末からで,当初はティグリニア人の内発的な動きよりは寧ろ,キリスト教の宣教師達の手によるもので,出版された本の内容も殆どがキリスト教関係のものでした.
 当時,エリトリアはイタリアの植民地支配下にあり,学校教育はイタリア人向けと現地人向けの2つのシステムに区別され,現地人の教育は極めて低レベルに置かれていました.

 それが一変したのが,1941年の英国によるエチオピア奪還で,エチオピアが奪還されると,エリトリアは英国の軍政下に置かれることになりました.
 英国軍政下では,教育に力が入れられ,初等教育の教授言語としては,キリスト教が多い地域ではティグリニア語が,イスラームの多い地域ではアラビア語が用いられ,西部のバレントゥ地域ではクマナ語が,中等教育は英語が用いられました.
 この時期,エリトリアではティグリニア語週刊誌"Eritorean Weekly News"が発行されますが,この記事に於いて様々なジャンルのティグリニア語が形成されていきます.
 その中心的な役割を果たしたのが,「ティグリニア語の父」とも称されるウォルデアブ・ウォルデマリアムと言う人物でした.

 1952年にエチオピアとの連邦が形成されると,ティグリニア語とアラビア語の新聞が発刊される一方で,教科科目としてアムハラ語が導入される様になります.
 この浸食は1962年にエリトリアの併合により更に高まり,言語面でもアムハラ語の使用が全面的に押し出される様になり,教育面でもエチオピアの制度が導入され,教授言語もアムハラ語に変更されます.

 その後,1974年に帝政が倒れ,社会主義体制になると,諸民族語の平等が謳われたものの,実際にはティグリニア語が表面に出ることも無く,教育現場でのティグリニア語の占める割合も極めて僅かなものでした.
 一方,分離独立を目指すエリトリア人民解放戦線(EPLF)は1977年1月の綱領でティグリニア語も含め,民族語の平等を謳い,「エリトリア人民を無知の暗黒から解放すべく,文盲と戦う」との項目がある様に,言語面の独立も目指しました.

 1991年,エチオピアの社会主義政権は崩壊し,1993年の国民投票を経て,エリトリアはエチオピアから分離し,新生国家としての独立を果たします.
 エリトリア政府では,エリトリアの9つの言語の平等を保証すると共に,ティグリニア語はアラビア語と並んで作業語(実質的な公用語)と位置づけられました.
 また,エチオピアでもティグライ州の作業語として位置づけられることになり,現在ではティグリニア語は名実共に書き言葉としても確固たる地位を占めることになります.
 因みに,ティグリニア語の表記は,エチオピア文字がそのまま用いられています.
 これは,エチオピア文字を使っての母音表記には,全く問題が無く,唯一,ゲエズ語やアムハラ語に無い子音のために,1種類の文字を追加するだけで済んだからです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/21 23:32
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 帝政崩壊後,エチオピアの公用語はどうなったのか?

 【回答】
 1974年に帝政を倒した軍は,新政府の政体に社会主義を採用し,1987年には新憲法を制定してエチオピア人民民主共和国となりました.
 そして,アムハラ語は憲法第116条で,「政府の作業語」と位置づけられました.
 「政府の作業語」とは,1987年1月30日付の政府系新聞"The Ethiopean Herald"に掲載された憲法草案の解説ではこう書かれています.

 労働者の共通の発展を促進し,労働者の階級的連帯を強化するためには,共通語が必要であるが故に,アムハラ語が国家の作業語と宣言された.
 それに並んで,全ての民族の言語の平等,発展の尊重が憲法によって保障された.
 この解説の最後の部分は,第116条の前半部に書かれていた「本憲法第2条第5項に抵触しない限りに於いて…」また,第2条第5項の「エチオピア人民民主共和国は諸民族の言語の平等,発展,尊重を促進する」とあるものを受けたものです.
 此に於て初めて,エチオピアを構成する諸民族は,言語面でも等しい権利を持つことが認められました.

 但し,同時にこの国の構成する諸民族の共通語の存在が必要とされ,その役割を担うのがアムハラ語とされた訳です.
 とは言え,先述の様にアムハラ語と同じ位,オロモ語の話者人口も多いので,アムハラ語だけを推したのは片手落ちとしか言えず,矢張り未だに中央政府では,アムハラ語中心主義がまだ見え隠れしている訳で,「公用語」は使わずに「作業語」と言う言葉でカムフラージュしていたのです.
 また,社会主義体制と言うのは,中央からの指令を上意下達式に下へ下す体制なので,それには中央集権体制が不可欠です.
 そう言った意味でも,名目的には各民族の自立を認めているのですが,内実は帝政期と大して変わりませんでした.

 話を革命時期に戻すと,1974年革命の後,権力闘争が大きな犠牲を出して行われ,最終的にメンギスツ・ハイレ=マリアムの手に権力が集中する結果となります.
 メンギスツ政権では,社会主義体制構築の動きが本格的になり,1979年からは大規模な識字キャンペーンが行われました.

 まず,1975年,政府は中等及び高等教育を停止し,6万人の教員や学生をゼメチャ(協同による発展キャンペーン)に参加させて地方に送る下放政策を開始しました.
 1979年からはそうした学生や教員を中心に,政府主導の大規模識字キャンペーンを開始します.
 その対象は,成人の非識字層で,1991年の政権崩壊まで12次に及び,約1,700万人が登録し,1,200万人が試験に通ったと言います.
 これに従事したボランティアは,教員,公務員,軍人,主婦,宗教団体などで150万人に及び,このキャンペーンの為に2,200万部のテキストが準備され,基礎的な農業,健康,土木関係の補足テキスト900万部が追加されました.

 1980年代にはそれが最高潮に達した時期で,アムハラ語の国営日刊紙『アッディス・ザマン』では,「闇から光へ」と言うコラムが作られ,文字を新たに自分の物とした人達からの,辿々しい文字での喜びを表した手紙が掲載され,また「新しい読み手達に」と言うコラムも作られて,新識字者向けの優しいアムハラ語の文章が掲載される様になりました.
 こうした全国的な運動を高く評価したユネスコは,1980年に国際読書協会識字賞を授与しています.

 帝政期の教育と異なり,帝政期が識字=アムハラ語の読み書きと言う図式であったのに対し,この時期はアムハラ語以外の言語も採用しています.
 これは地方での教育改善を目指す政策の一環で,当初はアムハラ語,オロモ語,ティグリニア語,ウォライタ語,ソマリ語の5つの言語で始まったのが,1981年にはカンバータ語,ハディーヤ語,ゲデオ語,クナマ語,ティグレ語が加えられ,1982年には更にグラゲ語の一種であるスルテ語,アファル語,シダマ語,カファ語,サホ語を加えて合計15言語で行われる様になりました.
これでエチオピアの総人口の9割をカバーするものでした.
 なお,クナマ語,ティグライ語,サホ語は現在ではエリトリアの言語です.

 アムハラ語以外の言語のプログラム導入は画期的でしたが,アムハラ語以外の言語教育の問題点としては,初歩的なテキストが準備されたものの,それ以降の段階に進むテキストが準備されていなかったり,その基はアムハラ語からの訳語テキストであり,オリジナリティに欠け,書記言語として整備されているアムハラ語以外は,書記言語の設定が余りなかった事,更に民族語教育の場合はどの方言を採用するかで,民族内の事情が余り考慮されていなかったこと,60に及ぶその他の言語には全く目が向けられていなかったことなどがありました.
 とは言え,この識字プログラムは一定の成果を挙げたのも事実で,2005年現在の識字率は,15歳以上の男性で50%,女性でも22.8%とアフリカの中では高い水準を誇っています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/22 23:03
青文字:加筆改修部分

 さて,1991年,エチオピア人民革命民主戦線を中心とする勢力が,社会主義政権を打倒することに成功します.
 こうして,新生エチオピアは,暫定政府を経て1995年に連邦民主共和国となりますが,暫定政府時代の1993年に,国民投票の結果,エリトリアはエチオピアからの分離を選択し,独立しました.

 その翌年,1994年12月には新憲法が制定され,連邦を構成する諸民族のあらゆる面での権利が保障されました.
 第39条の「民族,部族,人民の権利」には以下の様に書かれています.

------------
第1項 エチオピアの全ての民族,部族,人民は,分離の権利をも含め,自己決定の無条件の権利を持つ
第2項 文化を表現し,発展させ,振興し,また歴史を保持するために,自己の言語を話し,書き,発展させる権利を持つ
------------

 この内,言語については第5条「言語」で,次の様に規定されています.

------------
第1項 全てのエチオピアの言語は国家により同等のものと認められる
第2項 アムハラ語を連邦政府の作業語とする
第3項 連邦の構成員は法律によって各々の作業語を定めることが出来る
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 即ち,従来のアムハラ語中心主義は影を潜め,全言語の法の下での平等を保証しますが,連邦政府のレベルではアムハラ語が実質的な公用語としての地位を与えられ,第106条では「本憲法のアムハラ語版が最終的な法律的権威を持つ」と規定しています.
 但し,従来と異なり,これを地方レベルに拡大するのは避け,各州はそれぞれ独自の言語を作業語として規定することが出来る様になりました.

 文字通り,エチオピア連邦民主共和国は連邦制の国家です.
 連邦を形成する中核は9つの州で,それにアジスアベバとディレダワの2つの特別市が加わります.
 この内,アムハラ語を作業語とするのは,アムハラ州,アファル州,ベニ・シャングル州,南部諸民族州,ガンベラ州,アジスアベバ特別市,ディレダワ特別市と7つを占めます.
 それ以外では,オロミア州がオロモ語,ハラル州ではハラル語とオロモ語,ソマリ州ではソマリ語,ティグライ州ではティグリニア語が州の作業語として選択されています.
 なお,アファル州ではアファル語が多数派を占めていますが,当座の作業語はアムハラ語とし,将来的にアファル語を整備して作業語に位置づけようとしています.

 作業語の選択は,ある言語が当該地域で圧倒的に多数の話者人口を持つ場合は,その言語が選ばれ,そうでない場合はアムハラ語としています.
 とは言え,更に地方レベルになると,例えば初等教育で用いられる言語は,州の作業語よりもその地域の多数派言語に合わせる様にしていたりします.
 例えば,南部諸民族州の作業語はアムハラ語ですが,地域によっては教授言語としてウォライタ語やシダマ語が使われているのです.

 しかし,新しく連邦制となったエチオピアにとって,地方に権力を分与し,作業言語(公用語)を独自に選択させると言う事は,従来のアムハラ語の共通語としての地位が相対的に低下することに繋がります.
 今後,アムハラ語の話者が地方で少なくなっていくと,連邦政府からの分離指向がより働く可能性もあり,それが新たな混乱の引金になりかねない訳で,政府の舵取りが難しくなっていくのではないか,と思ってみたり.

 ところで,アムハラ語やオロモ語などの様に,書記言語としての機能が整備されてきた文字は兎も角,文字を持たない言語の場合は,先ず,文字をどの様に整備するかと言う問題が生じます.
 そうした言語の文字化を進めていったのが,宣教師達です.
 彼らはその教義を広めるためにも,聖書を現地の言葉に翻訳する必要がありました.
 しかし,苦心して作り上げた翻訳文字の聖書は,現地の教化には殆ど役に立っていない現実があります.

 これは,翻訳文字を作る際の文字が,アムハラ語が用いているエチオピア文字であるからと言う点に尽きます.
 元々,アムハラ語に最適化されている文字なのに,それを無理矢理諸民族の言語に当て嵌めたものなので,先日見たオロモ語の様に,どうしても無理が生じてしまいます.
 それに,普段,地域共通語としてアムハラ語に慣れ親しんでいる地域であれば,その文字はどうしてもアムハラ語に結びついて,自分たちの言葉としての親しみが無いのです.
 それを自分の言葉として共有出来れば,詩や物語の創作と言う形でその後の発展も見込めるのでしょうが,上から与えられたものであれば,中々親しみが湧かないでしょう.

 そう言う意味では,中国から漢字を輸入して,自分の言葉を表すために万葉仮名と言うものを作り上げても,それでは心情を綴る恋文が作れないからと,その漢字を極力簡略化して,平仮名を生んだ日本の様に,文字と言うものも,民衆の中で一度揉まれなければ,民衆に受容れられる文字にならないのではないか,と思ってみたりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/23 23:02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 オロモ語を文字表記しようという試行の顛末は?

 【回答】
 さて,エチオピアの中で大きなマイノリティーを構成しているのは,何もエリトリアだけではありません.
 オロモ人は民族人口としては,アムハラ人に匹敵するものの,アムハラ人中心の社会では,それに続くティグライ人よりも更に下の,三流民族として位置づけられていました.
 これは,アムハラ語やティグリニア語が,書記言語としてのスタイルが確立していたのに対し,オロモ語は書記言語としての形態を有していなかったことに起因します.

 しかし,アムハラ中心主義が浸透する1960年代に,エリトリアの分離独立運動が始まるのと期を一にして,オロモ人の中でもナショナリズムが高まり,オロモ人自身がオロモ語を文字表記しようという試みを,積極的に行っていく様になります.

 その先駆者となったのが,19世紀半ばに生まれ,奴隷として売られたオネシモース・ナシーブです.
 彼は奴隷となったものの,後に自由の身になってエリトリア沿岸マッサワにあったスウェーデン宣教団の下で勉強し,その優秀さを認められてスウェーデン本国で勉学に励みました.
 その後,マッサワに戻ってからは,聖書のオロモ語訳に没頭して,1899年に旧約聖書,新約聖書をスイスで刊行しました.
 その際,文字はエチオピア文字を改良して用いましたが,エチオピア文字は七母音体系に則った文字体系なので,短母音5,長母音5の10母音を持つオロモ語表記には,そのままでは適合せず,オネシモース流表記は此の点が,難点として挙げられていました.
 因みにオネシモースは,その後は様々な迫害を受けながらも,故郷であるエチオピア西部ウオッレガ地方で宣教活動に従事し,1931年に亡くなりましたが,彼の著作は聖書の翻訳だけで無く,1894年に出版された『教えの始まり〜オロモ語の綴方を教える本』に於いて,エチオピア文字によるオロモ語表記の練習,キリスト教的な内容の読み物に加え,伝統的な詩,警句,伝説などの文芸も記録しています.

 こうした活動の結果,一部地域ではオロモ語教育が行われる様になり,イタリア占領時にはそれが教育言語として採用されました.

 ところが,1941年にハイレ・セラシエが復位すると,先述の様に教育言語はアムハラ語のみとされ,宣教師も布教活動に於いて,オロモ語の使用を禁じられました.
 その後もオロモ人からのエチオピア文字使用請願は受容れられず,帝国政府のアムハラ語中心主義により,実質的なオロモ語著作の発展は閉ざされてしまいます.

 オネシモースに続いてオロモ語発展に寄与したのは,イスラーム教師で詩人のシャイフ・バクリ・サパロです.
 彼は母語のオロモ語以外に,アムハラ語,アラビア語,イタリア語,英語に通じる博識の人物で,自身の母語であるオロモ語を,文字を使って書き表したいと言う明確な意識を持ち,オロモ語の音素体系をかなり忠実に反映した,新たな文字体系を考案します.
 当然,この考えは帝国政府により危険思想とされ,長らく幽閉生活を送ることになりますが,この文字体系は東部のハラル周辺で,ある程度用いられました.
 彼の考案した文字体系は,エチオピア文字と同じ音節文字ですが,字形は全く異なるもので,オネシモース式表記と異なり,母音の長短の書き分けが可能でした.
 とは言え,弾圧により,これも一部地域でしか広まっていません.

 1970年代に入ると,オロモ人の自立を求める運動は更に活発になり,1973年にはオロモ解放戦線(OLF)が創立され,帝政期から社会主義体制期を通じて,活発な運動を展開しますが,その一環としてOLFは,ローマ字によるオロモ語の文字化を提唱します.
 1974年の革命直後には,社会主義政権の新政策に基づいて,ラジオのオロモ語放送が開始され,エチオピア語のオロモ語表記が認められて,"Bariisaa"(夜明け)と言う名の隔週刊新聞も,情報・文化省から発刊されます.
 此処で採用された表記法は,基本的にオネシモース式のものですが,中央政府は積極的にオロモ語の使用を認めた訳では無く,オロモ語出版物の数も多くはありませんでした.

 しかし,革命の熱気が薄れると,再びオロモ人達は国内での自治から,分離独立を求める様になります.
 文字にしても同様に,エチオピア文字からの独立を求め,ローマ字を用いたオロモ語の表記を行う様になりました.
 1991年にメンギスツ政権が崩壊すると,オロモ人は自己の言語の表記法として,ローマ字32文字による新しいシステムを正式に採用しました.
 このローマ字によるオロモ語アルファベット表記法は,オロモ語でqubeeと呼ばれ,エチオピア文字では表記出来なかったオロモ語のgara(〜へ)とgaara(山)の様な短・長母音の対立,及びbadaa(悪い)とbaddaa(高地)の様な,単独子音と重複子音の対立という,重要な区別も書き表すことを可能にしました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/22 23:03
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 現在のエチオピアの軍事力は,どのくらい?

 【回答】
 国防予算は4億8100万米ドル(2002年),330百万米ドル(2007年)
 陸軍は約10万人,空軍は約2500人.
 陸軍はT-62戦車×246両他,ソ連製兵器中心.
 空軍はスホーイSu-27戦闘機×18,スホーイSu-25攻撃機×8,ミグMiG-21戦闘機×21など,こちらも旧ソ連製の軍用機が中心.

 【参考ページ】
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ethiopia/data.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Ethiopia
http://en.wikipedia.org/wiki/Ethiopian_National_Defense_Force
http://en.wikipedia.org/wiki/Ethiopian_Air_Force

【ぐんじさんぎょう】,2012/07/16 20:30
を加筆改修


 【質問】
 エチオピアの国内紛争の要因は?

 【回答】
 基本的にはアムハラ勢力(中央権力)と非アムハラ勢力(地方あるいは周縁勢力)との対抗関係という図式である.
 ただし,この視点は有効であるが,慎重に取り扱わないと,アフリカの民族紛争のステレオ・タイプ的な理解である「部族対立」に陥る落とし穴に落ちてしまう.

 パレスティナ問題専門家,浅井信雄は「民族世界地図」(新潮社,p.101-102)において,
「エチオピアには70以上の民族・部族が存在し,エチオピア国民は存在するが,エチオピア民族も部族も存在しない.
 有力政治団体はエリトリア人民解放戦線(EPLF),ティグレ人民解放戦線(TPLF),オモロ解放戦線(OLF)などだが,いずれもアムハラ族支配への反発を主要なエネルギー源としてきている」と指摘している.

 詳しくは,
『民族と国家の国際比較研究』(未来社,1997/10/1), p.314
を参照されたし.


 【質問】
 エリトリア独立戦争って何?
 3行で教えて!

 【回答】
 エチオピア政府とエリトリアの分離主義者との間で起きた武力紛争.
 1955年の憲法においてアムハラ語のみが政府の公用語として定められるなど「アムハラ化政策」の下,エリトリア人の権利が制限されていくに従って,エリトリア・エチオピアは互いに反目していたが,1961年9月1日,エリトリア解放戦線(ELF)指導者ハミド・イドリス・アワテ Hamid Idris Awate の部隊が,エチオピア陸軍・警察に発砲したことから,遂に戦争に発展.
 エリトリア人民解放戦線(EPLF)と協力関係にあったエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が,エチオピアの首都アディスアベバを陥とし,エリトリア州内のエチオピア軍を掃討,EPLFが州内を勢力下に置いたことにより,1991年,事実上終結.

 なお,1993年4月,エチオピア政府による国民投票で,エチオピアからのエリトリアの独立が決まった.

 で,現在のエリトリアは?と言うと,「北韓よりも酷い人権弾圧国家」となっていますとさ.
 なんだかなあ…

 【参考ページ】
http://kaze.shinshomap.info/series/rights/10.html
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65703323.html
http://www.geocities.jp/teru_teru_funi/etiopiaeritoria.html

対立の構図
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/14 20:00
を加筆改修


 【質問】
 エリトリアはエチオピア固有の領土か?

 【回答】
 エリトリアは,1962年にエチオピア帝国の1州となったが,62年以前にエリトリアがエチオピアと同一の支配下にあったのは,1936-41年,イタリアが「東アフリカ帝国」構想の下,エチオピアを支配していた期間のみと見てよかろう.

 古代(紀元1世紀以後)のアクスム王国時代にエリトリアの一部が,エチオピア帝国の母体と言われるアクスム王国の支配下に入っていたということ,すなわち,エチオピアもエリトリアも共にアクスム王国を発祥地としているということが,エチオピアからのエリトリア独立を認めない根拠の一つとされてきた.
 しかし,エリトリアがアクスム王国の支配下にあったということは論証されていない.アクスムの通過の発見などから,交易関係にあったことは認められている.

 さらにアクスム王国は,ティグレを中心とするエチオピア北部を拠点としており,1880年代のショア=中部から領土を拡張して形成されたエチオピア帝国を,アクスム王国の流れを受け継ぐものとすることさえ問題視されるべきではなかろうか.極論すればエチオピア帝国は,1880年代以降に形成されたもので,かつてのアクスム王国の領土をショア王国が併合してしまったのである.

 エチオピア帝国は,1871年に成立したドイツと同じく,小王国の集合体であり,基本的には小王国が州になったと言って差し支えない.
 また,プロイセン王が代々ドイツ皇帝に就任したように,ショア王がエチオピア皇帝であり続けた.それはアムハラ人による非ハムハラ人支配を象徴していた.

 また,エリトリアは,エチオピアと単一の政体に属したことはなかったが,それ自体が独立した政体をなしたこともなかったというのが,エチオピアによる併合の根拠に用いられている.
 確かにエリトリアという政体は存在しなかった.つまり,そもそもエリトリアとは,エチオピアの語源イティオプス(日に焼けた人々,の意)と同じく,紅海に住む人々やその居住地を指す言葉としてギリシャ人が漠然と用いたもので,「紅色(の)」の意味である.
 ちなみに,1270-1667年のエチオピアならびにその周辺地域と,イスラム―ヨーロッパ関係を対象とした研究書には,エリトリアという用語は存在しない.
 けれども,エリトリアが存在しなかったから併合してよいということにはならない.

 エリトリアの場合には,現在のエリトリア領内に幾つかの小国(あるものは国家形成に至っていないが)が並立状態にあったようである.
 そして,スエズ運河開通もあって,ヨーロッパ列国の侵略の危機に晒され,イタリアの植民地支配に入って初めて「統一」,言い換えれば単一政体を形成した.
 その後,1896年にイタリアの侵略をアドワで退けたエチオピアが,講和条約によりイタリア領エリトリアを承認した.

( from 「民族と国家の国際比較研究」,未来社,1997/10/1, p.,抜粋要約)


 【質問】
 エチオピアの皇帝が,世界で最も長い王朝というのは本当か?

 【回答】
 エチオピアの皇帝は公式では,紀元前1000年から1974年の革命まで237代続いたそうな.
 しかし初代皇帝は,旧約聖書に出てくるダビデ王の直系の子孫のダビデ2世.
 その後も,聖書の登場人物が頻繁に皇帝になったり――しかも旧約聖書には,その人物がエチオピア皇帝になったことは一言も書かれてない――と,かなり眉唾で,後の皇帝が権威を高めるため創作したと見て間違いないといわれてる.
 その点日本の皇室は第9代天皇の開化天皇までは存在が確実視されているので,日本のほうが長いのかな?

(世界史板)

 ただし,以下の引用にあるように,もともと皇帝と言う言葉も時代によって意味合いが違ってくるので,果たして「最も長い帝室」という概念が適当かどうかすら疑問がある.

 同じ言葉でも異なる文化で使われていれば,そこから生まれる共通の現実感など,全くの幻想に終わってしまう場合もある.
 例えば,「皇帝」という言葉も当初,ローマ時代の状況では,成功を収めた将軍を意味していた.
 ローマ期には君主まで意味するようになったが,常に軍事的な意味合いが強かった.ローマ皇帝とは必ず,何よりも軍の最高司令官だったのである.
 この千年紀に,西洋の伝統においては,「皇帝」という言葉は他の意味も帯びるようになったものの,軍事的な意味合いは絶えることなく,18世紀以降になると再び新たな力も得た.
 ドイツとロシアの最後の皇帝には,軍服を着用していない写真など殆どなく,軍でも一番権威ある近衛騎兵隊司令官こそ彼らのお気に入りのイメージだった.兜にはローマ軍の直系であることを示す鷲もかたどられていた.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.68


 【質問】
 第二次大戦の戦後処理を巡る,エチオピアとイタリアとの外交交渉の経緯は?

 【回答】

 さて,宿題と言えば,イタリアとエチオピアとの間にも色々と宿題がありました.
 エチオピアは,英軍駐留下にあるとは言え,対イタリア戦勝国であり,しかも,戦前からの独立国です.
 従って,イタリアは主要連合国4カ国や国連の他に,エチオピアとの外交戦も戦わねばなりませんでした.
 しかも,帝国主義諸国と丁々発止の渡り合いをしてきたエチオピアの外交は巧みで,戦後はイタリアと英国を相互に牽制させ,利用することを考えていました.

 また,太平洋戦争後に於ける中華民国政府の日本に対する様に,エチオピア政府も敗戦国イタリアの人々に組織的な報復をせず,倫理的にも優位にありました.
 ハイレ・セラシエ皇帝は帰国の際に,国民に対してイタリア人に危害を加えないようにメッセージを出していましたし,国外にイタリア人が去る際にもエチオピア側から目立った復讐行為はありませんでした.
 これも,中華民国の蒋介石と同じように,イタリア人がエチオピア人にした事をエチオピア人がイタリア人にするのは,エチオピアの威信に関わると言う理屈でした.

 英国がイタリア人の完全撤退を求めた際にも,皇帝は英国に一定数のイタリア人の在留許可を求め,英国は500名の残留を認めたのに対し,皇帝とエチオピア人家庭がイタリア人を匿い,結果として残留者数は5,000〜6,000名に達しています.

 とは言え,こうしたエチオピアの姿勢が,イタリアの「帝国意識」の継続に力を貸したのは確かです.
 植民者や引揚者が結成した団体であるボッテーゴ協会や引揚者連盟は,植民地への帰還を求めるプロパガンダ活動を盛んに行い,1946年2月にはアフリカ・イタリア人会議も開催されています.
 公的機関でも,イタリア植民地研究所は,イタリア・アフリカ研修所に看板を掛け替えて存続しています.

 しかし,公式な外交ルートは既に戦争で閉ざされ,エチオピアとの外交交渉は民間人が担っていました.
 元エチオピア駐在外交官のピアチェンティーニは,ハイレ・セラシエ皇帝とも懇意であり,外交官を引退後も,早くも1942年からエチオピアに在住し,エチオピアの主権回復を個人的に支える為,英国軍との連絡役も買ってで,1944年11月には現地事情をボノーミ首相兼外相に報告しています.

 ピアチェンティーニは,5年間に亘るイタリアのエチオピア占領と言う事実は消せないにせよ,引揚者のエチオピアの帰還はイタリア,エチオピア双方に役立つものという信念を持っていました.
 1941年6月17日に,ロンドンで亡命中のハイレ・セラシエ皇帝に会ったピアチェンティーニは,皇帝が首都の文化水準を下げない為にイタリア人技師,商人,労働者の滞在を認めたいと考え,英国からエチオピアに委ねられるだろう権限の少なさについて嘆き,英国統治下の「囚人」となる位なら,帰国を望まないと考えている事を伝えていました.

 1949年にピアチェンティーニが外務省に送った報告では,エチオピア人エリート層の中にもイタリア人に厳しい態度を取る者がいる事を伝え,その中の最右翼である駐英エチオピア大使アベベ・レッタは,イタリアへの敵意を剥き出しにする一方,エリトリアのエチオピアへの編入は,「母国エチオピア」への統合であるとしていました.
 そして,エリトリアの自治要求は難しいと分析する一方,エリトリアの有力者でイタリアによる統治に関与していたテルファシャン・デッレスが皇帝の長女テナーニと親密な関係にあり,結婚には皇帝が反対するにしても,統合の象徴となるような工作を既に開始している事を報告しています.

 もう1つのルートは,コーラと言うイタリア人実業家です.
 彼は,1951年5月に,エチオピアで事業を行う運輸会社サーネの社長としてエチオピアに入国しましたが,実際には外務省からエチオピアとイタリアとの間の正式な国交回復を測るタイミングの瀬踏みをすると言う非公式な任務も与えられていた仮面外交官でした.

 因みに,コーラは1928年,当時摂政を務めていたタファリ・マコッネンと交渉して,イタリア・エチオピア友好仲裁条約の締結に尽力した人物であり,その時の記憶から,コーラは皇帝や重臣達にも期待を持って迎えられました.
 兎にも角にもコーラの奔走で交渉は最終段階に達し,コーラは事実上戦後初の駐エチオピアのイタリア大使になります.

 しかし,コーラの懸念点は,未だに「帝国意識」を引き摺る外務官僚の一部の姿勢でした.
 コーラは,当時のゾッピ外務省事務総長に,こう助言しています.

「過度に計算するな,過度に議論するな,チェルッリの様なメンタリティーの人間を送ってくれるな」
 ここで出たチェルッリとは,エチオピア研究者として知られているものの,外務省東アフリカ政治局長で,エチオピア戦争に参加し,その後はショワ・ハラル県知事を務めて,エチオピア国民を迫害した為に,エチオピア政府により戦犯リストに挙げられた,エンリコ・チェルッリと言う人物です.
 それこそ,彼の施政は,「帝国意識」の権化みたいなもので,コーラは批判的に見ていました.
 因みに,チェルッリは訴追を免れ,旧植民地関係の職には就けなかったものの,1950〜54年にかけて駐イランのイタリア大使を務めていたりします.

 こうして,ピアチェンティーニ,コーラの民間外交による地ならしが行われた後に,国交回復の最終交渉にはブルサスカ外務次官が派遣されました.
 ブルサスカは反ファシストであり,周辺国のトルコやエジプトでの駐在経験もあり,イタリアの新しいアフリカ政策を模索していました.
 コーラもエチオピア側もこの人選を喜びましたが,政府の方は訓令で,「外交関係樹立に一切条件を付けさせない事」と言う足かせを付けます.
 エチオピア側は,英米両政府に対し,イタリアとの関係復活の為にイタリア人使節のアジスアベバ派遣を正式に求めていましたが,イタリア側は植民者の財産処分や補償などの問題など細部に拘り,中々進展しませんでした.

 交渉で難関となったのは,エチオピア銀行からイタリア銀行及びイタリア為替局に移動された資産及び美術品の返還,それに損害賠償でした.

 特に掠奪美術品に関しては,1941年に当時のムッソリーニ政権は,エチオピアからの返還要求を拒否し,戦後の共和国政府も,返還は「1935年の侵攻に対して求められた賠償」に限られるとして,エチオピアが期待していた幾つかの美術品を返還リストに入れませんでした.

 その中でも最大のものが,エチオピアから移送されローマ広場に置かれていたアクスムのオベリスクでした.
 アクスムのオベリスクは,1世紀から4世紀の間にエジプト人によって作られた,高さ24m,重さ150トンの大きな碑で,その巨大さは如何にもファシスト党が好む古代文明の文化遺産であったと同時に,エチオピアから見れば,古代の聖地アクスムの主要なモニュメントでした.
 これは,エチオピア侵攻の際にイタリア軍兵士によって発見され,占領期に6つに分解してローマに移送,そして,ローマ進軍15周年記念で1937年に植民地省前のポルタ・カペーナ広場に設置されましたが,その後の戦闘や大気汚染で損傷を受けていました.

 エチオピアはこれの返還を強く求めますが,イタリア政府の説明は,「イタリア・エチオピア関係の復活を嫌う左翼の一派がこれを毀損する恐れがある為」移送が難しいと言う訳のわからない説明でお茶を濁します.
 交渉が長引く間,1951年には米国がエチオピアと友好条約を締結してしまい,この国に地歩を築いてしまいました.
 即ち,イタリアは折角のエチオピアとの関係改善に出遅れてしまった訳です.
 おまけに,1954年に行われたハイレ・セラシエ皇帝の欧州諸国歴訪では,主要国中でイタリアだけが日程から排除されてしまうと言う屈辱を味わう事になり,イタリアは,アクスムのオペリスクについては,即時返還は技術的に難しいものの,返還方法について検討委員会を設置する事などをエチオピアに約束し,二国間合意が漸く成立したのは,米国のエチオピア進出に遅れる事5年を経た,1956年3月の事でした.

 後に,ハイレ・セラシエ皇帝は修復と移送の難しさを認め,アクスムのオペリスクをイタリアとエチオピアの友好関係が続く象徴として,皇帝からイタリア人への「個人的贈物」として,イタリア残留を容認します.

 しかし,その後を襲った革命後のエチオピア政府は,その解釈を容認せず,イタリアも返還の時期を探っていましたが,エチオピア状勢が不安定化した為に返還が遅れ,21世紀に入った2002年にやっと修復が完了し,2005年より段階的に移送を開始して,2008年に全ての返還が完了すると言う曲折を経ています.

 結局,イタリアは植民地帝国の残滓を引き摺る形で,政府も国民の間にもそうした意識が残り,時代を読み切れずに,欧米各国にもエチオピアにも外交的に敗北します.
 その後のアフリカへのコミットメントに関しても,成果は残せず,またアフリカに於いて「植民地帝国」に代る新たな役割をアフリカに示す事にも成功しませんでした.
 唯一,何とか成果らしきものを残せたのは,ソマリアの信託統治くらいなものです.
 つい最近まで,イタリアに於いて自国の植民地史研究はタブー視されていました.
 それどころか,そうした研究を排除する動きも「アフリカ引揚者全国連盟」と言う団体によって引き起こされたりしています.
 しかし,世代を超えて,漸く今になって,冷静に植民地史を研究する状態が生まれつつあるようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/26 23:44
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 エチオピア=ソマリア紛争とは?

 【回答】
 ソマリ族が多数を占めるエチオピア東部のオガデン州(1920年にエチオピア領となる)の分離・ソマリア復帰を目ざす運動(オガデン州解放運動)が,ソマリア政府の支援ですでに1966年に始まっていたが,エチオピア革命後さらに激化.

 1977年にはエチオピアで軍事政権の内紛が起こり,メンギスツ臨時軍事評議会第一副議長が同評議会議長に就任.
 すると同年7月にはソマリア軍がエチオピアに侵入.これがエチオピア=ソマリア紛争と呼ばれる.
 エチオピアはソマリア軍を撃退し,ソマリア軍は1978年3月に撤退.

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/89-tojyoukoku2.html


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